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いてっ!氏、ゼルダの伝説をさらに語る

──こうして再びインタビューの機会を与えられたことを光栄に思います。
この前のインタビューでは聞き切れなかった部分まで掘り下げて話していただければ、と思っていますが…

そうですね〜、まず一番言いたいのは今のゼルダはお約束が多すぎて冒険してる感じが全くしないということ。
知っている世界、知っているシステム、知っている謎解き、こういった既知のもので成り立っている。
アクションRPGにとって一番重要なのは自分が冒険している感覚だ。
キャラやフラグを使って次の行き先を完全に指示される今のゼルダは、冒険とは程遠いゲームである。
いうなれば観光旅行…

──確かにアイテムフラグやイベントフラグの足止めばかり使い、戦闘バランス調整を放棄している今のゼルダには目を覆いたくなるものがありますからねぇ。
何か解決方法はあるのでしょうか?

そのキーワードとなるものは「生きている障害物」です。
ようするに戦闘自体が障害物となっており、キャラクターの強さとプレイヤーのスキルを総合して行動範囲が決まること。
これを有効に使い世界を作り上げ、逆にアクション性もRPG性も殺してしまうフラグ的な「死んでいる障害物」は極力排除する。
しかしまぁ、それには緻密かつシビアな戦闘バランス調整が必要不可欠なので
大金を注ぎ込んだ同人ゲーと揶揄されるまでに没落してしまった今のゼルダに求めるのは酷かも知れない。

──なるほど、私はそういった世界構築に成功しているゲームはArmageddon Quest Forever以外に知りません。
何かコツでもあるのでしょうか?クリエイターはどういうことに意識して作る必要があるのかをご教授ください。

ようするに
 ・反射神経や指先の動き
 ・神経をすり減らす針の穴を通すような行動
稀に起こりうる幸運などによる物でなく
 ・経験や知識
 ・既存のテクニック
 ・状況に応じ次の展開を予測する戦略的行動
 ・間合いのとり方
 ・アイテムの使い方
 ・死に覚え
 ・場慣れ
 ・ひらめき
こういった実戦で培われるような知識や智恵を駆使することによって、初めてクリア可能になるというのが優れたゲーム性である。

──プレイヤースキル重視という訳ですね。でもそうするとクリアできない人が続出しそうな気がしますが大丈夫なのでしょうか?
みんながクリアできなければいけないという考えは最近のゲームに毒されているのでは?
ファミコン時代のゲームなんてのはクリアできないのが当たり前であった。
しかしみんなが楽しくプレイしていたのは何故か?
それはゲームというものはクリアするのが目的なのではなく、クリアを目指して努力する過程を楽しむものだからである。
野球をやっている全ての人が甲子園に行けるわけではないのだ

──なるほど私もそういうゲームを始めた頃の気持ちを忘れてしまっていたようで、目からウロコが落ちる思いです。
それでは最後に何か一言お願いします

初代のゼルダの剣突きはピストン運動の暗喩、剣ビームはスペルマの暗喩。だから操作していてキモチイイんですよ。

──ありがとうございました。また会える日を楽しみにしています!

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